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キャプテン会議コラム

キャプテン会議リレーコラムは、僕たちキャプテン会議メンバーが「ラグビーの魅力を伝える」ことを目的に、リレー方式で連載するコラムです。
このコラムを通じて、将来トップリーグ選手を目指す子ども達や僕たちを応援してくださるファンの皆さんに、僕たちがラグビーを通じて得た経験から様々なメッセージを伝えていきたいと思います。

(キャプテン会議メンバー一同)

蔵 憲治(コカ・コーラウエストレッドスパークス)


蔵 憲治(コカ・コーラウエストレッドスパークス)
蔵 憲治
Kenji Kura
コカ・コーラウエストレッドスパークス
ポジション:フッカー

このたびの東日本大震災において被災されたみなさまへ心よりお見舞い申し上げます。

いつもラグビートップリーグを応援して頂きありがとうございます。
今回コラムを担当させて頂きます、コカ・コーラウエストレッドスパークスの蔵憲治です。宜しくお願いします。
私からは、「自己紹介ならびに、ラグビーとの出会い・ラグビーの素晴らしさ」をご紹介させて頂きます。しばしお時間をください。

私は、鹿児島県の徳之島(米軍基地移転問題!?・闘牛!?・選挙で有名な島!?)で生まれ育ちました。その当時は、ラグビーとは無縁の地で、私自身も全くラグビーを知りませんでしたが、3つ上の兄が高校からラグビーを始め、2年時に花園に出場し、その試合を見たのがラグビーとの出会いでした。当時は、こんな激しいスポーツをして「どこが楽しいのだろう?痛くない?きつくない?」と思って見ていましたが、何度か兄の試合を見る度に、「俺やったらああする。こうする」と兄に意見を言うようになり、オフ期間に実家に帰ってきた兄と近くの畑(さとうきび畑・たまにハブ出没)でタックルやパスを教わり、近所の同級生も無理やり誘ってラグビーをしていました。高校進学の時期になり、すでに、兄と同じ高校でラグビーをする気持ちが強くなり、迷わず同じ道を歩みました。

高校入学と同時にラグビー部に入部して一番ビックリしたのが、島には、めったにいない大柄な男ばかりで、しかも同級生と言うことが分かり最初は、ちょっとビビッていましたが、昔から負けん気の強い子でしたので同級生には負けたくないと毎日毎日、練習に取り組んでいました。そのお陰で、2年3年時にメンバーとして花園に出場しました。結果は、どちらも一回戦敗退でしたが、ラグビーに対する情熱が冷めることもなく、大学進学を選び、ラグビーができる環境を提供していただき、大学では、学生日本一の経験もできとても充実したラグビー生活を送りました。社会人になっても環境に恵まれ毎日、「感謝の気持ち」を忘れることなく10年目になりました。

こんなラグビー人生を歩んできた中で、一番、私にラグビーに対する素晴らしさを教えていただいた言葉があります。それは大学時代の恩師の言葉で、「ラグビーは仲間作りである」との言葉を頂いたことがありました。本当に、いろんな時代の仲間や一度試合をした仲間とは今でも、試合会場や地域のラグビークリニック、酒場などで会うと会話が弾みます。また、それまで音信不通になっていた仲間(無理やりラグビーを教えた仲間)でも、会うと自然に当時の思い出話や、大笑いした話などがどんどんでてきます。私はラグビー馬鹿ってよく言われるのですが、結局、ラグビー経験者って純粋で単純な人が多くて(先輩方に失礼ですが…)、熱いハートを持った集団だと思います。こんなスポーツは他にありません。

なぜなら、大人数で一つのボールをみんなで繋いでトライを取る球技で、トライを取るには一つのパスにしろ、ラックでも全ての場面で相手に対しての思いやりを持たないと結果がでないからです。ノーサイドの精神も、あれだけ激しい試合をした相手でも、お互いに勝つために必要なことを分かっているし、相手に対しての思いやりがあるので、試合終了のホイッスルがなると「お互いの健闘を分かち合う。称えあう。」と言うことだと思います。

このコラムを書くにあたり本当に、ラグビー・仲間っていいなぁと思いなおすことができました。この経験と、ラグビーの楽しさを提供し、少しでもラグビーに興味を持って頂けるように微力ながら普及活動に協力していきたいと思います。今後もラグビートップリーグのみならず、ラグビーの試合会場に足を運んでいただき、我々、選手に声を掛けて下さい。どんなトレーニングよりグラウンドでのパフォーマンスの源になります。宜しくお願いいたします。また九州にお越しの際は是非、レッドスパークスのグラウンドにも来てください。

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キャプテン会議コラム



湯淺直孝(リコーブラックラムズ)

湯淺直孝(リコーブラックラムズ)
湯淺直孝
Naotaka Yuasa
リコーブラックラムズ、キャプテン
ポジション:スクラムハーフ

ラグビーファンの皆様、そして本サイトの愛読者の皆様、こんにちは。今回キャプテン会議コラムを担当しますリコーブラックラムズの湯淺直孝です。

この度は、東日本大震災で被災された方にお見舞い申し上げるとともに、一日も早い復興をお祈り申し上げます。

今回は私がラグビーを始めるきっかけ、ラグビーの素晴らしさについて記載させて頂きます。

私は中学校入学と同時にクラブチーム(香椎ヤングラガーズ)に入り、ラグビーを初めました。それまでは、野球をやっており、毎日学校でも、帰ってきても野球をして野球漬けの毎日でした。もちろん、その時の将来の夢はプロ野球選手になることでした。ラグビーをやりたいと思うあの日を迎えるまでは・・・

私が小学生の時、兄が高校でラグビーをしていました。その流れで、小学校6年生の秋に、兄の最後の試合である福岡県大会をたまたま親に連れられて観戦に行きました。試合が始まるまでは正直ラグビーをあまり知らず、面白いと思いませんでした。試合会場でもグラウンドの色々な所をフラフラして退屈していました。
しかし、いざ兄のラグビーが始まると、自然と力が入り、声を上げて応援していました。タックルやトライがある度に、身体が震え上がり、自分がプレーしているかのような気持ちになってしまっていました。
その瞬間ラグビーという素晴らしいスポーツと出会いました。そして私の将来の夢がラグビー選手になる事へ変わった瞬間でした。

それから、学校がある時は必ずラグビーボールを持って行き、休み時間には、今まで野球をしていた友達を無理やり巻き込んで、見よう見まねでラグビーをしていました。野球より楽しくて仕方ありませんでした。友達は野球をしたかったかもしれませんが・・・
中学では野球部に入るとずっと思っていましたが、あの試合を見てからは野球への未練は全く無く、ラグビーがやりたい。ただそれだけを考えていました。地元の中学校では部活にラグビーが無い為、どうしてもラグビーがしたい私は、兄の友達に紹介して貰い、文頭に書きましたクラブチーム(香椎ヤングラガーズ)に所属し、念願のラグビーを始めることが出来ました。

いざ、本格的にラグビーを始めると、それはそれは楽しくて、ラグビーを益々好きになりました。
試合で骨を折ったり怪我をしたりして、痛い思いはしたのですが、一度もやめたいと思った事はありませんでした。ただただ、ラグビーの素晴らしさに魅了されていました。

そして、これだけラグビーにはまった理由がもう一つあります。それは仲間の存在です。ラグビーの仲間は一生の付き合いと言って良いほど、仲間の絆が深いです。現に私は今中学時代の仲間と連絡を取ったり、飲みに行ったりしています。兄の高校時代の仲間に関しては、兄を通り越して、家族とも仲良くなっています。兄が実家にいないにもかかわらず、実家に遊びに来たり泊まりに来たりしているみたいです。
そういったモノ全てを踏まえて、ラグビーの素晴らしさに完全にやられてしまいました。

それから、高校、大学ともラグビー一筋?の人生を送ってきました。
そして、今のチームである、リコーブラックラムズに入部する事が出来ました。
その瞬間、小学生の時の夢が叶いました。
今は新たな夢をもって、毎日ラグビーを楽しんでいます。

新たな夢の一つは、ラグビーの楽しさ、素晴らしさを、まだそれに気付いていない方々に少しでも気付いてもらう事です。
自分の将来の夢が一瞬で変わったこの素晴らしいスポーツを、たくさんの方々に広めていきたいです。
ラグビーをあまり知らない大人の方々には一度会場に足を運んでもらい、ラグビー観て、ラグビーの素晴らしさを何でも良いので感じ取って欲しいです。
将来を担う子供達には、運動不足な子供達が増えているこの世の中なので、今は色々なスポーツを体験してどんどん体を動かして、まずスポーツを好きになって欲しいです。そしてその先に色々なスポーツを体験する中で、1回はラグビーに触れて、ラグビーを体験して欲しいです。ラグビーに対する見方が変わったり、ラグビーをやりたくるかもしれません。ラグビーと言うスポーツがただ痛いだけのスポーツでない事を感じて、仲間の重要性だったり、本当の友達と呼べる仲間をラグビー通じてたくさん作って欲しいです。

最終的には、ラグビーを日本で一番人気のあるスポーツにして行きたいです。

そう言った夢を叶える為には、自らそしてチームのレベルをあげて、もっと楽しんで貰える試合をし、地域・社会貢献活動など、積極的に取り組んで、ラグビーの素晴らしさを伝えていきたいと思います。
今後とも、ラグビー トップリーグそしてリコーブラックラムズを宜しくお願い申し上げます。
最後まで目を通していただきましてありがとうございました。

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串田義和(ヤマハ発動機ジュビロ)

串田義和(ヤマハ発動機ジュビロ)
串田義和
Yoshikazu Kushida
ヤマハ発動機ジュビロ、キャプテン
ポジション:フランカー

いつもラグビートップリーグを応援して下さいまして、また本サイトにお越し頂きましてありがとうございます。今回のコラムを担当させて頂くヤマハ発動機ジュビロの串田義和と申します。よろしくお願い致します。

今回は私が感じるラグビーの素晴らしさについて述べたいと思います。

まず私がラグビーを始めたきっかけから話をしていきます。
私が小学校3年生の時に父親からの勧めと母方の祖父母の家が名古屋瑞穂ラグビー場の近くという縁もあり、名古屋ラグビースクールに入校しました。

年に20回程の練習と夏合宿(あったような!?)に愛知県内の他のラグビースクールとの試合が年に1回ありました。練習がある度に祖父母の家に泊まることが出来たので毎回の練習を非常に楽しみにしていました。小学生当時、近所の友人達と行なう野球やサッカーに、子供ながらに全く才能を感じなかった私ですが、ラグビーだけは周りと比べると一回り大きかった身体と、幼い頃から家業の酒屋での手伝いから培った足腰の強さですぐにヒーローになることができました。

そんな大好きなラグビーですが、なぜか小学校5年生までの3年間しか行っていません。
理由は・・・引越しでもなければ、怪我による中断でもありません。
ただ単に父親が次の年の更新時に締め切り期限が切れてしまい、ラグビースクールに通うことができなかったのです。父親の勧めで始めたラグビーですが、父親によって終了させられた幼少時のラグビーでした(笑)。

すっかりとラグビーと離れていた私でしたが、またラグビーと再会したのは高校時代でした。
愛知県にはラグビーで有名な学校が多数ありますが、高校入学時はラグビーをもう頭の中から忘れた状態で中村高校に入学しました。小学校時代にやったことがあるのでまたラグビーでもやろうかなと、気軽な気持ちでラグビー部に入部した私ですが、当初の中村高校ラグビー部は2年生、3年生共に3名位ずつしか部員がいない高校でした。

しかし、同級生にラグビー部入部者が奇跡的に多数集まり、高校2年生時には愛知県ベスト8まで進むことができました。それがきっかけで再びラグビーが大好きになり、それ以降大学、社会人と現在に至ります。

ここで振り返ってみると、高校時代のクラスメートからの一言がポイントだったように思われます。その一言とは、「あれ、ひょっとして小学校の時にラグビーやっていた?」の一言。同じラグビースクールに通っていたことが判明し、さらには私が愛知県選抜に選出された時、一緒に試合をした事を覚えており、すぐに意気投合したことを思い出しました。

ラグビー始めてから20年近く経ちますが、いまだに高校時代のチームメート、選抜チームのチームメート、大学時代のチームメート、他のチームに移籍したチームメート、もう引退をしたチームメートと今でも連絡を取り合っています。距離は離れているため、なかなか会う機会も減ってきてはいるものの、未だに交友が続いています。

そして一度会えば、まるでいつも一緒にいたかのような気軽な気持ちで楽しく話すことができ、当時を振り返り昔話に花を咲かせてみたり、現在の状況を話し合ったりといつまでも話題が尽きることがありません。

私が感じるラグビーの素晴らしさというのは、ラグビーで授かった友情だと思います。

未来のトップリーガーの皆さん、
これからどんどん成長して色々な人々と出会いそして成長していくと思います。
その中でも辛い事、苦しい事があると思いますがその時は是非友達に相談してみて下さい。
きっと力になってくれると思います。また、友達から相談を受けた時は真剣になって話を聞いて下さい。
最後に、現在の友人を大事にして下さい、未来の友人を大事にして下さい。
それがきっとあなたにとってのかけがえのない財産になります。

最後まで本文をお読み頂きましてありがとうございます。これからもラグビー発展のために尽力して参りたいと思いますので、ご指導ご支援の程よろしくお願い申し上げます。

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菅藤 友(福岡サニックスブルース)

菅藤 友(福岡サニックスブルース)
菅藤 友
Yu Kanto
福岡サニックスブルース、キャプテン
ポジション:フランカー、No.8

全国のラグビーファンの皆さん、こんにちは。今回キャプテン会議コラムを担当します福岡サニックスブルースの菅藤友です。よろしくお願いします。

私は小学校2年生の時にラグビーを始めました。その頃はとにかくボールを持ってプレーすることが大好きで、格好良く見えるパスやトライをすることばかりを考えてラグビーをしていました。ディフェンスが大嫌いでタックルは痛いし地味だと思っていました。

そんな、目立ちたがり屋の私が「タックル大好き人間」に変わるきっかけとなった出来事がありました。大学の時の試合で対戦チームに体が大きい外国人選手がいて、試合の数日前にチームメイトと「あいつらを1対1で止めるのは難しいよな」という話をしていました。実際の試合になると、やはり私達のチームは、なかなかその外国人選手を止めることが出来ませんでしたが、私は「どうしても止めたい!」という気持ちで、足首をめがけてタックルをして止めました。それがきっかけとなり、試合の流れを変えることができました。試合には負けてしまいましたが、仲間から信頼を得ることができ、また、自分の中で、タックルが楽しいと思うことができるようになり、その時からラグビーに対する考え方が少しずつ変わっていったような気がします。

サニックスに入社して、同期の選手が試合に出る中、私はなかなか試合に出ることができませんでした。入社2年目に怪我をしてしまい、復帰する際に、当時のコーチの勧めでポジションをフランカーからセンターに変えました。センターを始めて2年後にようやくレギュラーを獲得することができました。4年間、センターとしてプレーしてきて迎えた2006-2007シーズンのトヨタ自動車戦。この試合には12番で出場していたのですが、前半が終わりロッカーに戻ると監督から「菅藤、後半からフランカーにいって」と言われたのです。チームに怪我人が出たわけでもなく、試合前にそのようなプランを言われたわけでもなかったので、正直驚きました。

しかし、いざ試合となると、4年ぶりにフランカーをしているとは思えないくらいに体が動きました。おそらく、4年間センターをしたことによって、昔フランカーをしていた時には気が付かなかった部分も見えるようになったのではないかと思います。結局その次の試合から、フランカーとして試合に出るようになりました。

再度フランカーとなった私は「仕事人」を目指しました。FW・BKお互いの気持ちが分かる自分の特権を生かして、チームのかゆいところに手が届くような選手になることを心掛けました。つまり、目指したのは、“派手さはなくても、常にゲームの流れを読みながらチームの必要としていることを80分間できる選手”であり、“ゲームの流れが悪いときやチームがピンチの状況の時に先頭に立って体を張れる選手”でした。そして、試合の中で、ボールを持っていない時に、チームが勝つために自分が何をすべきかをより深く考えるようになりました。スタジアムを沸かせられるようなスーパープレーはなかなか出来ないけれど、チームが勝つために貢献できることは探せば沢山あるのです。

私が未来のトップリーガーに伝えたいことは、ラグビーの楽しさを知るためにたくさんのことにチャレンジして欲しいということです。私はラグビーを始めてからの25年間でほとんどのポジションを経験させてもらいましたが、どのポジションもやりがいがあり、それぞれに違った楽しさがありました。ラグビーには正解もなければ間違いもありません。自分で探した数ほど、可能性は広がると思います。

これからもラグビークリニックなどを通じて子供たちに、ラグビーの素晴らしさを感じてもらえるように、積極的に普及活動に取り組んでいきます。そして、一人でも多くの人にラグビーの魅力が伝わるように、さらにレベルの高いラグビーを目指して努力します。

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吉田正明(豊田自動織機シャトルズ)

吉田正明(豊田自動織機シャトルズ)
吉田正明
Masaaki Yoshida
豊田自動織機シャトルズ、キャプテン
ポジション:スクラムハーフ

いつもトップリーグを応援していただきありがとうございます。今回コラムを担当させていただく、豊田自動織機シャトルズ吉田正明と申します。よろしくお願いします。私からは『ラグビー人生の出来事』を紹介したいと思います。

私がラグビーを始めたきっかけは当時ラグビーをしていた兄の影響と、友達からの熱い誘いがあってラグビーを始めました。最初、ラグビーのことは何も知らないまま、兄の応援に行っていました。何回か応援に行く度に少しずつラグビーの魅力を感じ、おもしろそうだなと思っていたその時に、小学校からラグビースクールに通っていた友達に「ラグビー(タッチフット)しよう」と声をかけられ、サッカーやバスケをして遊んでいたのをやめ、ラグビー(タッチフット)をするようになりました。
それでも少し、中学で部活は何しようか迷っていたときもう一度友達から「中学で一緒にラグビーしようぜ!」と言われ、ラグビーをすることに決めました。
その友達の一言があり、今こうやってラグビーのグラウンドに立ち続けることができています。
ラグビーをするきっかけを作ってくれた友達には、大変感謝しています。

その後、入部してからは休みもなくラグビー漬けの日々でした。中学生で大きいケガをするほどの激しい練習で、時にはラグビーをやめようかと考えたこともありましたが、練習が終わった後、友達と夜遅くまで楽しい話や辛い話をしたりできるってこともあり、それにラグビーがなくなってからの生活は自分の中では考えることができなかったので、やめることはありませんでした。そんな良い仲間に出会い一緒にプレーできたことが嬉しく思います。

高校・大学と同じ日々を過ごし、良いチームメイトに出会うことができ、充実したラグビー生活を送ることができました。あと、中学・高校と「優勝」という二文字を目標にしてきたことが大学4年で達成できたことです。今までは、あと一歩というところまでいくが届かず、悔しい思いばかりしてきました。でも、優勝という二文字が見えた瞬間はすべてを忘れ、これまで一緒に戦ってきた仲間と抱き合ったことが一生の思い出となりました。その夢がかなったのも良い監督、後輩、仲間に恵まれ楽しくできたからだと思います。

現在、豊田自動織機シャトルズでプレーしていますが、ここでも監督、先輩後輩と恵まれ楽しくでき、会社の従業員のみなさんやファンのみなさんに支えられてラグビーが続けられています。

しかし、今、一番支えになっているのは大学時代に関わり始めた普及活動で出会った子供です。それはなぜかというと、社会人になってから手紙がくるようになりました。いろいろと学校行事のことやタグラグビーでの出来事を書いてくれて、テレビ放送があった日は喜んで応援していると書いてくれています。私はその手紙が届く度に勇気づけられ元気をもらっています。本当に心から感謝しています。私たちの試合をみて子供たちが喜んでくれているのはとても嬉しいことです。これからもそのような子供たちが増えるような試合をしてラグビー界を盛り上げていき、ラグビーが好きな子供たちが将来トップリーガーになることを楽しみに、これからもラグビーを頑張っていきたいと思います。

私は14年間ラグビーをして人とのつながりの大切さを学ぶことができました。いろんな人と出会い私一人ではラグビーができないことがわかりました。これからも人とのつながりを大切にし、ラグビーの魅力を伝えるために社会貢献や普及活動をしていきたいと思っています。
応援よろしくお願いします。

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